西鉄といえばバス会社だ。

「西日本鉄道」というのが正式名称だというのを知らない福岡市民は、意外に多いように思う。
「にしてつ」「西鉄」という名前が定着しているため、福岡市民に「西日本鉄道」と呼び掛けても、たぶん即座に「西鉄」と結びつく人は少ないと思う。

あくまでも個人的な印象を列挙したに過ぎないので、あまり信じないで欲しいが。

もし、「にしてつ」という名前ではなく、「西日本鉄道」という名前が完全に定着していたら、「JR西日本=西日本旅客鉄道」という会社が設立される予定だった国鉄民営化前夜など、一悶着あったのではないかと思う。

「それ、西日本鉄道(福岡)と間違えやすいから、違う名前にせよ」 
などというツッコミが運輸省あたりから入り、仕方なくJR関西とか、JR中国とか、JR西本州とか、そういう名前になったのかもしれないと、勝手に妄想する。

そんなことはないだろうけど。


さて。

有名なバス部門に対し、鉄道部門は地味と思われがちではあるが、なかなかそちらも立派なものである。

大牟田線(現在は天神大牟田線という名称)、宮地岳線(現在は貝塚線)、太宰府線、甘木線があり、路面電車があった時代は福岡市内線、北九州線、北方線など、そこそこネットワークを持っていた。

大牟田線(支線も含む)は標準軌を採用していて、国鉄よりもずっと立派に見えたものだった。走っているのは全て電車で、黄色い特急用2000形を除けば後はアイスグリーン+赤帯の一般電車、私が記憶している最初期にはベージュ+茶色の車両を見かけたことがある。

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西鉄電車で覚えている最初の記憶は、薬院駅付近で電車を眺めていたこと。

当時の薬院は、大ターミナル西鉄福岡駅の隣、対向ホームの小さな地上駅。西鉄福岡駅が起点・終点なので、特急はもちろん急行などは停車せず、普通列車だけの駅だった。周囲はオフィス街、近くに学校などもあるのだが、そんな駅なので微妙に不便だった。

路面電車が走っていた頃は平面クロスしていたし、その後もバス路線が頻繁にこの駅前を通り、利便性は高いはずなのだが、西鉄電車への乗り換え、または西鉄電車からバスへの乗り換えはあまりなかったように覚えている。

というわけで、都会の真ん中の駅ながらどこかのんびりしていて、駅から少し入ると静かな住宅街だった。母が何かの用事でこの近辺に来る必要があったらしく、私もそれについて行った。

母が仕事の用を足す間に、私は無骨な木製の柵ごしに、行き交う電車を眺めていた。
それこそ、雑多な車両がやってくる。

繰り返しになるけれども列挙する。

黄色+赤帯の特急2000形。6両・転換クロスシートという豪華装備、運転台が通常の鉄道車両は左側なのに対し、これは中央にあるという特異な形式だった。個人的には、そこまで好きとは言えない顔つきだったが、とにかく目立っていた。

アイスグリーン+赤帯の5000形。運転台のある側だけがパノラミックウィンドウになっていて、ちょっと特異な顔つき。これは今も活躍している。

やはり同じ塗装の600形。5000形に比べると普通の顔。ただ、上の写真にもある通り、アイスグリーン+赤帯になった直後だったので、ベージュ+茶色の旧塗装もいくつか出会ったし、腰部のライトカセットではなく、頭に一灯ライトを載せた旧顔のものもいた。
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(上は後年撮影したもの)

1000形もよく来た。2000形の登場で特急から外され、少し残念な顔をしているようにも見えた。
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(上は後年撮影したもの)

珍しいのは1300形。つり目の顔は非常に特殊だった。出身は旧600形というから、当時としても貴重なものだったのだろうと思う。怒ったような表情なので、子供心にもよく覚えている。
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(上は後年撮影したもの)

まだ当時は300形などもいたらしく、かろうじて写真を撮ったのだが、当時カメラの使い方がわからないために裏蓋を開けてしまい、感光させてしまっている。当時の小学生鉄道ファンあるあるな失敗なのだ。
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他にもたくさんの電車を見て、撮影も一部をした記憶があるが、大部分は忘れてしまった。

さて、そのときのもう一つの記憶。

近くの商店、せんべいなどの米菓を売っている店があった。
駄菓子屋、というより、もう少し大人向けの店だったかもしれない。
母はそこで、柿の種を買ってくれた。

現在の、スーパーやコンビニなどで売っているような、個別に包装されているものではなく、量り売りで、紙に包まれたその柿の種のおいしさは、以後ずっと忘れることができず、現在に至るまで柿の種が好きになる要因となった。

私にとって、西鉄電車の最初の記憶=柿の種、なのである。