西鉄バスに関する私の最も古い記憶は、ベージュと深緑の車体。

どこで見たかは覚えていない。
調べてみると、その塗装が採用されていたのは1975(昭和50)年あたりまでだから、まだ4歳頃の私が、詳細を覚えているはずはない。

とりあえず、その記憶を持ってはいたものの、その後は長いこと標準採用されていた白+ピンク帯の車体と付き合っていたのだから、「あれは記憶違いかな」と思っても仕方ないと思う。
今のように、ネットで瞬時に調べられるわけでもないし、幼児の頃の記憶を確認するため、資料を探したり図書館に行ったり、あるいは西鉄本社に問い合わせするような、そこまで重要な事柄でもない。

2018年に復刻カラーが登場して、記憶とほぼ同じなのを見て、ああ、やはり間違いなかったんだと思う程度だ。それでもいいと思う。


2008年に新たなスマートループという塗装が採用され、強烈な違和感を感じたのは、その間に使われていた、「白+ピンク帯」という期間が非常に長く、そしてその期間は、私の人格を形成し、思春期を過ぎ、大人になるまでという、個人の環境が激変する中で、バスの塗装はほとんど変わらなかったという、個人的な経験が関係していると思う。
ただ、その "時代" は、いわゆる「団塊ジュニア」世代が多いので、やはり同じく違和感を感じる人が多いのではないかと思うのだが。まあ、それはどうでもいい話である。

今回は、そんな西鉄バスの思い出を、自分が知っている限りの内容で書きたい。


自宅最寄りのバス停は「唐木」だった。早良区の飯倉地区にある、主要でもなんでもない小さなバス停だ。
IMG_2628

周辺は住宅街だったため利用客は多いものの、この近辺はどのバス停でも似たようなもので、それぞれ両隣にある、西鉄バス営業所の飯倉(飯倉営業所)、三叉路にあった干隈などと比較しても地味なバス停だった。そのため、後に急行が設定された時には、通過扱いとなった。

隣に飯倉営業所があるのは、いろんな意味で不便だった。
天神や博多駅方面へ、そこ始発の便が多いため、当然のことながら唐木は本数が少ない。少ないといっても田舎のローカル線ではないからかなりの本数はあるのだが、営業所の方はやはり本数がもっと多い上に、始発だから当然空いていて、ほぼ100%座れる。なので時々、飯倉営業所まで歩いて行くこともあったし、また、天神や博多駅から帰る際も、「飯倉営業所」止まりが多かったので、そこから唐木まで歩くことが多かった。

唐木から飯倉営業所までの距離は全然大したものではなく、せいぜい300mくらいではあるが、不思議とこの距離でも不満ではあった。とは言っても、何ができるわけでもない。歩くか、待つか、である。


営業所はそこそこ広く、いつも十数台のバスが休んでいた。

小学校のときに、見学ということでここに訪れてバスを見せてもらったこともある。営業所建物内は黒い大理石のような頑丈なカウンターがあって、暗くて閑散としていた。検修庫やバス車体も見たはずだが、全く記憶が残っていないのは不思議である。当時、鉄道少年だった私は、あまりバスに興味を示さなかったのかもしれない。そして簡単なパンフレットをもらって帰ってきた。

後日、友人が「もう一度行きたい」と言ったので、再度営業所に訪れたのだが、応対した職員の方はやはり同じパンフレットだけ渡して、内部には入れなかった。当然だと思う。


そんな営業所の一番手前に、通常より小さなバスがちょこんと座っていることがあった。
当時としては新設路線にあたる、星の原団地行きのバスだった。

飯倉営業所を始発に、唐木が一応、分岐点となり、干隈バス停の直前で右折、そして大坪というバス停のみを経由して、終点・星の原団地へ至るミニ路線だった。当時は他の路線と同じ「3」という系統のみ割り当てられていた。
この間の道路がやたらと狭いゆえ、他の路線で標準の大型車体では運行できず、それよりもちょっと小柄な中型バスを用意していた。車体デザインはほぼ同一、面構えや方向幕などは全く同じものの、それでいてちょっと小柄という愛らしいバスである。

この時期のバスの特徴として、車体正面のウインカーが今のような黄色でかつ側面まで回り込んだものではなく、前面ライトの上に設置する白熱灯タイプを採用していて、それもそろそろ末期でなくなりそうな頃合いだった。この小さいバスは、片側1灯ライト+白熱灯ウインカーで、それでいてその他の顔つきは他の大型バスと同じという特異な存在だった。個人的には好きな一台だった。

飯倉営業所と星の原団地の間を行ったり来たりするのみで、本数もごく少なかった。だからこの愛らしいバスに乗ったことは残念ながらなかった。いつの間にか、新型に置き換えられていて、運転区間も西新まで伸びた。そして飯倉営業所も廃止されて、しばらくの間は空き地の状態となっていた。 星の原団地行きバスは、しばらく今川橋を寝ぐらにしていたように記憶している。