ひなもりよわら運営

ひなもりよわら運営、よろかるキャラ、北条鉄道の北条ふらわや、その他よろづのかるみの話などを書いていきます。

2021年04月

遠い日の国鉄車両(7・国鉄型電車:よろづのかるみ昔話)

フィルム時代は、24枚撮りというのが標準だった。

カメラにフィルムを詰め、出かけても、24枚しか撮影できない。運がよければもう1〜2枚は撮れたけれども、終わってしまえば、カメラはただの重量物にしかならない。 

もちろん予備のフィルムも準備して行くのだが、普段行かない地域に出かけ、珍しい車両などがそこにいると、フィルムはどんどん消費してしまう。手持ちフィルムが無くなってしまったら現地で調達したいのだが、量販店が少なかった当時、小さな商店なんかで売ってるフィルムは高かった。24枚撮りネガフィルムで、1本あたり700円。量販店でも500円前後。セットで安くなってて1本単位300円くらいが下限だった記憶がある。そしてそれらは撮影終了後に現像を依頼しなきゃいけないから、そうすると1本あたり400円〜800円くらい、同時プリント(現像と写真プリントを同時依頼)だと1500円かかる。

つまり24枚の写真を撮影するのに、最低1000円弱はかかる計算になるのだから、高いといえば高い。今なら1000円くらいだと、品質は別として軽く1000枚ぐらいは撮影できるメモリーカードが手に入るのだから、 デジタルの恩恵とはこういうものかと思うこともある。


とまぁ、昔のフィルム事情などどうでもいいとして。
このあたりを書き込んでいくと、

「いや、うちは〇〇円くらいで安かった」
「その価格は〇〇年あたりで、それより前はもう少し高い」

などの不毛な議論になる。そしてそれはもはや意味のない議論だ。

さて、フィルムというのが貴重という話をひとくさりしたところで。

「どうしても撮りたい!」と思う対象、当時学生だった私にとってのそれは、新型車両だった。
贅沢な話で、何度も書いたかもしれないが、当時は485系やキハ58や415系類が溢れていて、珍しくもなんともなく、むしろ疎ましく思えていた。
そこに、例えば713系が現れたりすると、(顔はほとんど415系そっくりなのに)そちらに気を取られる。
同じ415系とかキハ40系でも、九州色に塗り替えられていると、それも珍しくて撮影してしまう。

つまり鉄道趣味(というか趣味全般)において、希少なものを珍重するという法則なのだ。
今、国鉄型が追われているのも、それと同じだと思う。

そんな中で撮影したもの。
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そこまで言っておいて485系かよ、と思われるかもしれない。

んがしかし、このどちらも引退した今となっては、「485系かもめ・西鉄8000形」のクロス写真は貴重だと思う。

当時としても、なかなかこの場所で、特急どうしが重なっているというのを見たことがなかった。ゆえにこの写真、個人的にはすごく気に入ってはいた。

先頭が貫通型で、ヘッドマークが小型なのもいい。

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これは421系の初期型、全面窓がデカいタイプのもの。
当時も「デカ窓くん」などと言われていたような気がする。
ただ、この撮影当時は既に運用終了となり、留置されている姿。
背後にある「オランダ村特急」もなつかしい。 

遠い日のゲームセンター(番外編2:よろづのかるみ昔話)

前回の追記です。


人によるかもだけれど、ゲーセンで思いっきり燃えたゲームが、家庭用に移植されると聞いて歓喜して、待ちわびて、いざ発売されたので買ったら、思ったほどプレーしなくなった、という経験はないだろうか。 

私の場合、リアルタイムでアーケード→家庭用というものはほとんどなかったのだが、当時燃えに燃えたインベーダーとかギャラクシアンなどが、PC版や家庭用ゲーム機で発売されても、あまりやり込まなかった記憶がある。ゲーセンだと、軽く10回は遊ぶのに。
 
もちろん移植の完成度はあると思う。
画質、音質、動作スピード。
筐体もあると思う。
スティックやボタンなどの操作感、その違い。
その他いろいろ。
1980年代のアーケードゲーム時代は、明らかに家庭用PCが能力不足だったので、画質を重視すると動きが遅くなったり、動きを重視すると画質、そして音質はあんまり期待できないという仕上がりになった。

それが大きく変わっていくのはファミコンの登場を待たねばならず、ファミコンが登場した時には、今度はアーケードも大きく変化し、スタンドやテーブル形状から、筐体に跨ったり入り込んだりするタイプも登場し、やはりゲーセンと家庭用は大きく乖離していた。

しかし、それらよりも、「お金を賭ける(使う)」というのも大きいのではないだろうか。
家庭用に移植されたら、「これ1本買えば、もうゲーセンでお金を使う必要がなくなる」と思うのだが、家で遊んでもいまいち燃えず、数回やって終わって、しばらくは積みゲーになってしまう。
ゲーセンだとお金を使う。そして負ける。悔しいからもう一度やってみる。負ける。さらに、、みたいなのめり込みがあったような記憶がある。

1日で1万円札が消えてしまった事もある。
大人ではない。小学生の頃の話だ。お年玉を全消費した。


終わってしまって、何も残らない虚しさを感じた。
それまで、500円とか、1000円を使ったことはあるけれど、あれだけ莫大な金額を消費したのは、後にも先にもあの時だけだった。

それだけ、ゲーセンにはハマったのだ。

以上、あくまでも個人的な経験。

とりあえず、この話はここで終わる。
アーケードと家庭用を比較する意味があんまりないからだ。
お金を賭けるうんぬんも、あくまでも個人的な経験にすぎないし。

さて、
依存症になりやすい、というか、誘惑に弱い私が、何故かパチンコだけはそうならなかった。 

パチンコなんて、ちょっと前のブームのとき、いくつもの私の好きな要素があって、のめり込む危険性があった。
一つはあの「密」な空間である。タバコ臭い、人が多い、なんだか電子音でうるさい、あの空間はかつてのゲーセンそっくりである。

そして、アニメなどをモチーフにして、それらのファンでパチンコには全く興味のない人たちをも引き込んでいった時期があった。

あと、ゲーセンはお金を溶かすだけだが、パチンコは場合によっては景品などなどがゲットできることもある。

最強である。

ハマらない要素などない。

しかし、結果的にはそうならなかった。
二つ要因がある。

一つはもちろん、小学生で1万円を溶かした記憶。
あの虚しさを、子供のころに体験した経験は貴重だった。

もう一つ。高校卒業後、専門学校のような短大に通っていたとき、パチンコ台の管理システムの開発関係のバイトをしていた。
台番号とか出玉率とかの管理システムなのだが、その仕事では、やはりパチンコもゲーセンに近いくらいに金を消費してしまうシステムのだ。金額は比べ物にならないほど。


もしこの二つの経験がなければ、今頃パチンコにハマってて家庭など顧みなかった可能性もあるし、当然そうなればひなもりよわらなどのイラストもなかったのかなとは思う。


今、コロナ禍で厳しい現状だが、状況が許せばゆっくりゲーセン巡りしてみたいと思っている。 

遠い日のゲームセンター(番外編:よろづのかるみ昔話)

昨今はゲームセンターが苦境に陥ってる。


私が学生の頃は、ゲーセンといえば不良少年の溜まり場であり。
なんだかよく分からない、薄暗い空間に電子音が鳴り響き。
タバコ臭い場所で、真面目な大人は近寄らない。
男ばかりの。

そんな空間だったと思う。 


しかしちょっと前に、プリクラやクレーンゲームなどが登場して、チェーン展開する企業もあり、孤独な男の隠れ家(?)からカップルや家族の場所となって、今では大手だと明るい雰囲気のそれとなっている。

まぁもちろん、それはそれで正しい方向だ。
何も問題はない。


今回話題にしたいのは、そちらではなく、いわゆる私が子供のころ体験した薄暗いゲーセンの方である。


ゲームセンターそのものは、テーブルテニスのようなシンプルなものから、ブロックくずし、サーカス、そういったゲームが、やがてインベーダーで開花した。

1ゲーム100円、ただし私が知っているのはもう少し後、インベーダーは時代遅れとなって、1プレイ50円になった頃。

当時は最先端として、ギャラクシアンとかパックマンが出ていた。平安京エイリアンもあった。ディグダグにはもう少し早かった。


当時、すでにブームが過ぎていたインベーダーはさまざまな形でパクられ、今や日本最大のエンターテイメント企業といっても差し支えない任天堂からも、パクりが出ていた。フィーバーベーダーとか言ってた気がする。

ゲームの種類は多いけれど、どれも似たようなもので、シューティングがメイン。
例外はパックマン系で、似たようなのにラリーXとかもあった。
あるいは、任天堂はちょっと違うスタイルのシューティング、シェリフとかが出ていた。

あとは、何か忘れたけれど、フットボール? アメフトみたいなので、ぶつかってケガをすると女性の声で「いたいいたいいたい」と叫ぶのもあった。


ある程度の規模のゲームセンターには、サブマリンというナムコのエレメカゲームがあって、これは常時「ピピーン」というソナーの音を出していた。潜望鏡をデザインした黄色い窓を覗くと、その向こうにプラモデルの戦艦が並んでいる。

ゲームセンターは、プレーしていないと静かである。というのも、デモ状態だと音は出ず、お金を投入して初めてサウンドが鳴るからだ。しかしこのサブマリンは、デモ中でも音を鳴らしていて目立っていた。

サブマリンといえば、そういうテーブルゲームもあった。戦艦から爆雷を落として、下を通る潜水艦に当てるだけというシンプルなものだ。戦艦も爆雷も潜水艦も、水という制約があるため動きは遅い。当時の性能の低いコンピュータにはうってつけの素材だったのだろう。ディープスキャンとかN-SUBという名前のものもあった。


ルナレスキューとかムーンクレスタとか、名前で伝わるかどうか分からないけど、そういうのもあった。

みんな、100円もしくは50円、時代遅れのものは10円玉を投入して、ゲームに没頭したものだ。

正直なところ、ファミコンブーム、そしてスーファミ、現在のPS5に至るまでの、家庭用ゲームの文化の礎を作ったのは、これらのゲーセン時代からではないかと思う。ゲーセンでやってたゲームを、家でもやりたい。お金を払わずにできる方法はないだろうか。その流れで、1980年ごろにパソコンブームが起こったけれども、当時、パソコンのスペックは低くてインベーダーを再現するのも精一杯だった。しかもプログラミングを要求された。それが、カセットを入れるだけで簡単にゲームができるファミコンの登場で、一気に勢力図は変わった(もちろん海外製のATARIとかコモドールとかもあったけれど、クオリティはあまり良くないのと、価格が異常に高かった)。


ちなみに思い出すままに徒然と書いただけなので、オチは一切なく終わります。 

遠い日の博多駅(6・電気機関車:よろづのかるみ昔話)

「国鉄型引退」というニュースに触れると、ときどき、「国鉄時代の車両は良かった」というフレーズに出会うことがある。

漠然としててよく分からない。

かつて設計者が手書きで作り上げていった設計図が、コンピュータ導入で平面的になったり、またはその時代の流行を反映したり、さらに材質の進化や保安装置の法規改正があったりなどで、車両の顔つきはどんどん変わっていく。

国鉄時代の車両にはある一定の統一されているデザイン観があって、それを指して「よい」という感想もあるとは思う。

変化を嫌うというのも、あるのではないか。

ただ、それよりもむしろ、「最近の車両はおもしろくない」というアンチテーゼとして、使われているような気がする。これはいつの時代も同じで、103系が活躍しているときにも言われたし、それどころか209系などでも同じことを言う人がいた。いつの時代にも、「ちょっと昔の車両=貴重な存在」という考えは存在するのだろう。


国鉄時代のデザインが、ファンにとって桃源郷だったのかどうかは何とも言えない。

特急電車は九州に485系がいて、本州にも485系・183系・381系がいて、北海道に781系がいた。
デザインに若干の違いはあるけれど、ほぼ同じ顔だ。

急行型ディーゼルカーはキハ58がメイン。 
近郊型電車は113系・415系。顔はほぼ同じ。

「趣味とは、一つの種類から違うものを見つけるもの」
と言った人がいるとかいないとか、確かに同じ421系でも、ライトがでかいとか小さいとか、窓の数うんぬんという違いはあるけれど、マニアでないとなかなか注目はできない。

だから国鉄時代は、乗り潰しなどの旅行に出かけて、行く先行く先で同じような車両に出会うこととなり、そういう意味では退屈だった。
ただその地方の管理局によって、微細に改良・改造が加えられ、そういう違いを発見する楽しみも、確かにあった。

そうなると、国鉄型がよき、という前提も、当時に照らし合わせると答えは出なくなる。
つまり、いつの時代も、それよりちょっと前の世代が羨望されているし、普段見ない顔が珍しくていいのだということになる。分かりづらいけれど、そういうことだと思っている。


ただし、明らかに、一部地方でしか会えない車両もいる。

昭和50年代あたりに出ていた、子ども向けの「ブルートレイン本」などは、主に本州、というか東京近辺で撮影された写真が多かった。
当然、ブルートレインを牽引する機関車は、EF65-1000(1100でもいいけど)が多く、古いやつでEF58ばかりであった。
ブルートレインに合う、青+クリーム帯のスマートな機関車は、その列車のイメージアップに大いに貢献していたと思う。ヘッドマークを掲げた姿も素敵に見える。

そういうのを見て育ったものだから、いつしか「ブルートレイン=青い機関車・青い客車」と思っていた。

が、私の住む九州は違った。赤い機関車で、ヘッドマークはついていない。


なぜ機関車が違うのか、何度も取り換えるのか、理由はきちんと本に書いているはずだけど、私はそこまでじっくり読まないタイプだった。時折、思い出したように紹介される九州でのブルートレインの姿、そしてごくまれに扱われる関門トンネルでの銀色の機関車に牽かれるそれを見て、
「なんで、こんなに頻繁に変えるんだろう」
と思う程度だった。九州の目的の駅(『あさかぜ』なら博多駅)に到着したら、また青いEF65に牽引されて、東京へ戻るのだとも考えていた。

その後、電化方式の違いというのを知り、九州では必ず赤い機関車で牽かれるというのを知って、軽い衝撃を受けたのを記憶している。小学校低学年の話だ。

国鉄という統一されているデザインで、確かに顔は似ているけれど、色は違う。そういうこともあるもんだと思った。


さて、当時はブルートレインの最盛期であり、自称 "最寄り駅" の博多駅にも、多くのブルトレが到着していた。

東京発だと、『さくら』に始まり、『はやぶさ』『みずほ』『あさかぜ』。関西発も含めるとまだまだ多く、さらに寝台電車583系も加わった。

子どもとしてはじっとしていられるような内容ではないので、博多駅に訪れては、それらを眺めていた。
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最初に見たのは、ED72の『あさかぜ』だったが、写真が行方不明なので、まずはこちらのED73『みずほ』。

黄色い切り抜きナンバーが特徴だったが、理由が非常にシンプルで、「前面から見るとED72と全く区別がつかない」から。

『みずほ』という列車も、地味な存在だった。長崎・熊本ゆきというのはその前に運転されている『さくら』『はやぶさ』と被る。当時はそれを補完するだけの旅客数があった、というのも驚きだが、この時はすでに凋落しかけていて、21世紀を迎える前に消えてしまった。その後、その名が、まさか九州新幹線の最速タイプとして復活するなど、当時は誰も予想できなかったと思う。 

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さて上記のEF70は『さくら』。ヘッドマークがないから、全く分からない。
EF70も、もともとは北陸で活躍するために登場した車両ではあるが、あちらが交直流入り混じる複雑な関係になってしまって、余剰となって九州へやってきた。だが、九州はすでにED76の天下であったし、なにぶん線路が貧弱という状況だったので、あまり長いこと活躍せずに消えていった。同じような機関車にED74というのもあったが、これは見たことがない。博多口には来ていなかったと思う。 

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昭和59年の2月改正で、ヘッドマークが復活した。

そもそもブルートレインは全区間でヘッドマークを装着していたのだが、九州では運転区間が長くないという理由で合理化により廃止していた。それが「復活」するとあって、この時期はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。ED75-300の最終ナンバー「311」もなかなか良きである。

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ブルートレインとは関係ないが、博多駅の新幹線よりには、時々こうやって貨物や回送列車が現れていた。ここはその後、篠栗線博多乗り入れのため9番のりばが設置され、さらにその後新幹線ホームとなった場所。たぶん。(最近行ってないので分からない)。

遠い日の筑肥線(5・西新駅:よろづのかるみ昔話)

どこかで書いた記憶があるけれど、どこかは忘れたので再度記すことに。

自宅から最も近い駅は、国鉄筑肥線・西新駅だった。

以前も書いたが、自宅からは約2kmちょっと。歩いて行くには全然「最寄り」の駅ではない。それに、この西新駅から福岡市の中心地・天神へは乗り換えなしでは行けず、さらに、西新駅そのものも、国道から少し入った場所にあったので、少なくとも飯倉地区からは「あってないような駅」という存在だった。バス網がそれ以上に便利だったのも大きな理由だ。

朝、小学校に通う通学路で、西新駅を出発する列車の警笛が「プワン」と鳴るのが聞こえることもあった。当時の国鉄、いや門鉄局? は、列車の発車時に必ず警笛を鳴らしていた。

つまり西新駅との日常のつきあいは、以上であった。

しかしながら鉄道少年ではあるので、身近な鉄道路線に触れてみたいという思いもあった。
私にとってのそれはもちろん、筑肥線だった。


現在の国道263号線、荒江二丁目交差点。ここがかつての筑肥線踏切。
西新駅はここから西に2〜300mほど入ったところ。 

踏切から、遠方にホーム上屋と腕木式信号機が見える。
小学生なので、学校が終わってから訪れることが多かった。赤い夕日の中にそれらがぼうっと映えていた。その中には、スプリングポイントの幻想的な紫色の信号灯も見えている。 

踏切が鳴ると下り列車が西新駅に滑り込む。そして次に上り列車が博多へ向かう。国道を走るドライバーはこの長い待ち時間をどうしていたのか、それは見たことはないが、そこそこ混雑する道路を、筑肥線ののんびりとした気動車列車が横切るのは、街の交通政策上好ましくないことらしかった。

西新駅はバラックのような作り…… と後に書かれているのを見たが、不思議とあまり記憶がない。待合室はそこそこ混み、窓口では切符を買う人も多い。切符はもちろん全部硬券だ。行き先を指定して買う人もいるし、「〇〇円区間」と金額を指定する人もいた。

こんなに多くの人がいるのに、廃止されるんだな……と思った。もちろん地下鉄への「平行路線」だからなんだろうけど、ここから地下鉄西新駅までは遠い。同じ名前なのに、確実に1km以上離れている。

改札を入ってホームで列車を待つ。駅員がポイント切り替えや信号の「てこ」のあたりで赤い旗を持って立つ。タブレットも持っている。私の「ひなもりよわら」の物語、邦鉄の世界はこれが恐らく原点になっているんだろうと思う。とはいっても、ちょっと前までは、どこの国鉄線でも当たり前に展開されていた景色ではある。
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さて、ここから博多駅まで行くために乗った列車の記憶はほとんどない。確実に数回乗っているはずなのに、完全に忘れてしまっているのは、その後の博多駅で繰り広げられる、各種特急・急行などの出会いの印象が強すぎたからなのだろう。地味なキハ35系などは、忘れても仕方ないのかもしれない。


ただ、一度だけ強烈な記憶として、「博多駅から西新駅まで」乗ったことは残っている。 このときは、友人K氏と一緒だった。博多駅で切符を買い、筑肥線列車に乗って、西新まで到着する……のだが、このときの切符を、どうしても手元に残したかった。普通の切符(ただし自動券売機の軟券)だが、子供には貴重なものだったのかもしれない。

その友人Kと、
「これ、取っておきたいよね」
「でも、駅に着いたら回収されちゃうよ」
「『ください』って言ってもダメかな?」
「前、博多駅で『欲しい』と言ったけど、『決まりだから』って結局回収されちゃった」
「そっか……」
などの会話をしていたが、それを隣にいるおばちゃんが聞いていたのだと思う。

「駅に着いたら改札の反対側に行って、そこから道路に出ればいい」

考えてみたら、最大の怪しい行動ではある。
到着した列車から改札を通過したくない=キセル疑惑、なのだが、小学生の我々は妙に納得して、「その手があったか」と思った。額面通りの切符を持っていて、何の後ろめたい気分もなかったことが、一つはあったのかもしれない。

西新駅に着いた。
たくさんの人が降りる。
列車が動いても、まだホームに人がいる。
そこで、私たち二人は、こっそりホームを降り、線路を歩いた。
線路ぎわに勝手踏切があって、そこから抜け出すことに成功した。
見事、手元には、博多駅から、西新駅までの金額が記載された切符が手に入った。

指定された場所以外でホームを出る、線路を歩く、鉄道敷地内を横切る。
今だと確実に「害悪鉄」な存在だが、40年前、線路を歩く人は多かった。改札を通過しない人もいた。
しかし、それをいまだに覚えているのは、当時やったことが「よくないこと」と分かっているからなのだろうと思う。

残念ながらその切符は、手元にはない。 
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こう書くと、なんだか以前、サボを盗んで琵琶湖に沈めた事を告白した、某レールウェイ・ライターみたいな感じが、しないでもない。

ひょっとしたら、
「なんだこいつ、犯罪告白かよ」
と思う方もいるかもしれない。

そう受け止められたら非常に申し訳ないが、他人の財産を奪ったり運賃を誤魔化したわけではないので、強烈な西新駅の記憶として、あえて記しました。

遠い日の西鉄電車(4・宮地岳線:よろづのかるみ昔話)

自宅は早良区にあったので、西鉄電車とはほぼ無縁の日々を送っていた。

一番近かったのは福岡市内線の西新停留所だと思う。しかし廃止されたのは小学校低学年の頃。電車に乗ったどころか、電車そのものを見た記憶はほぼない。
廃止に際し、立派な図柄の、無料乗車券らしきものを親がもらってきてたように覚えている。写真ではなく、写真調のモノクロイラストだったような記憶があるが、ネットで検索しても見かけない。それがあったのにも拘らず、乗らなかった。


そんなわけで、市内線がなくなって以降、西鉄電車は市の中心および東の乗り物だと思っていた。

ところが転機が訪れ、太宰府の学校に通うこととなった。わずか2年であるが、その間、西鉄電車ユーザーになれたのだ。

朝、地下鉄もしくはバス経由で西鉄福岡駅へ向かう。太宰府行きの電車もあれば、二日市で乗り換えて太宰府へ行くこともできる。 二日市と太宰府はわずか2駅、しかも二日市で進行方向が変わる。こんな支線にわざわざ直通を用意している意図は分からないが、学校に通うのにちょうどいい時間帯に、そういう運用があった。

日中は基本30分ヘッドで8000形特急、2000形急行を運転していたが、朝夕のラッシュ時は雑多な車両が入り時混じり、5000形の特急もあれば、8000形の普通もあった。私が乗る太宰府ゆきは、この8000形を使っていた。ラッシュと反対方向なので空いていて、よく先頭車両の展望席に座れた。しかし毎日乗って前方を眺めていると飽きる上に、終点の太宰府は進行方向が逆になっているので、駅出口とは正反対の最後尾だった。ゆえに、いつしか座る場所も列車の中央付近になった。

二日市で太宰府線に入るのだが、進行方向が変わるといっても途中に西鉄五条があるだけのミニ路線なので、誰も転換シートを反転させなかった。

その二日市には、まだ車両基地の設備が残っていた。すでに筑紫基地へ移転し、車両配置もすべてそこへ移っていたはずだが、線路や車庫などの一部が残っていて、そこにまだ300形が顔を見せていたように記憶しているが、ひょっとするとこれはそれ以前に訪れたときのものと混同しているかもしれない。太宰府への学校へ通い始めたのは1989年頃(平成元年)あたりなので、つじつまが合わない気がする。

さて、ようやく宮地岳線。

ほぼ鹿児島本線と並走する同路線だが、2両もしくは3両のフリークエントサービスを実施し、しかも、ほぼ全駅に駅員をおき、列車そのものは完全ワンマンとする合理的な運営だった。車体側に発車ベルを搭載し、運転士がそれを鳴らすというのも、個人的には斬新に思えた。

導入されている車両は大牟田線のお下がりばかりで、私が訪れた頃はすでに生え抜きの旧型はいなかった。黄色+赤帯という、大牟田線特急と同じ塗装でイメージアップを図っていた。
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旧型はいないといってもすでに300形も313形もいわゆる旧型である。ただ、300形でも、運転台を非貫通型にしたタイプは、一見新車に見えた。

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終点に津屋崎に行ったのは一度だけで、特に何もない、簡素な雰囲気の、いかにも私鉄の終着駅という感じだった。もしかすると名前の通り宮地嶽神社だけが目的で、津屋崎はおまけだったのかなとも思うけれど、わざわざ延長開業しているのだから、何らかの予定があったのだろうか。

福岡市交通局の地下鉄が、貝塚まで延長開業したときに、将来的には宮地岳線と直通運転するとしきりに計画を披露していた。
どちらも同じ直流1500V、1067mm軌間なので、大規模な軌道改修は必要ない。
その前提として貝塚駅はそれぞれ西鉄と地下鉄が相対する配置となり、その気になれば、いつでも線路は繋げられるような設計となっていた。
かつての筑肥線みたく、非電化路線をわざわざ九州に存在しない直流電化させ、しかも西唐津まで延々と走らせ、その間の駅全てに6両対応工事・ホームかさ上げなどをするよりも、はるかに低廉に思えた。

しかしながら、それはなかなか実現しない。
いつ直通するのか、どういう形で直通するのか、そういう話題ばかりが出ている最中、その宮地岳線が赤字という事で短縮される事態に陥った。名称も貝塚線となった。


西鉄新宮から先、古賀ゴルフ場前とか、花見とか、面白い駅名があったのだが、それも廃止となった。あれだけフリークエントサービスを実施し、そこそこ沿線人口も多いはずなのに、それでも廃止となるというのは、福岡ではなくそれ以外の地方ローカル鉄道事業者にとっては何とも言えない状況なのだろうけれど、大手私鉄ゆえの葛藤があったのか、それとも、鹿児島本線に完全に客を奪われていたのか。

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そして、沿線にある「かしいかえん」も、2021年末で閉園となる。

かつては福岡市民のちょっとした遊園地として親しまれていた同園。
以前、「かしいかえん号」という塗装(ラッピングではない)の120形もあったのだが、たまたまそれを撮っていた。 

遠い日の西鉄電車(3・薬院駅:よろづのかるみ昔話)

西鉄といえばバス会社だ。

「西日本鉄道」というのが正式名称だというのを知らない福岡市民は、意外に多いように思う。
「にしてつ」「西鉄」という名前が定着しているため、福岡市民に「西日本鉄道」と呼び掛けても、たぶん即座に「西鉄」と結びつく人は少ないと思う。

あくまでも個人的な印象を列挙したに過ぎないので、あまり信じないで欲しいが。

もし、「にしてつ」という名前ではなく、「西日本鉄道」という名前が完全に定着していたら、「JR西日本=西日本旅客鉄道」という会社が設立される予定だった国鉄民営化前夜など、一悶着あったのではないかと思う。

「それ、西日本鉄道(福岡)と間違えやすいから、違う名前にせよ」 
などというツッコミが運輸省あたりから入り、仕方なくJR関西とか、JR中国とか、JR西本州とか、そういう名前になったのかもしれないと、勝手に妄想する。

そんなことはないだろうけど。


さて。

有名なバス部門に対し、鉄道部門は地味と思われがちではあるが、なかなかそちらも立派なものである。

大牟田線(現在は天神大牟田線という名称)、宮地岳線(現在は貝塚線)、太宰府線、甘木線があり、路面電車があった時代は福岡市内線、北九州線、北方線など、そこそこネットワークを持っていた。

大牟田線(支線も含む)は標準軌を採用していて、国鉄よりもずっと立派に見えたものだった。走っているのは全て電車で、黄色い特急用2000形を除けば後はアイスグリーン+赤帯の一般電車、私が記憶している最初期にはベージュ+茶色の車両を見かけたことがある。

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西鉄電車で覚えている最初の記憶は、薬院駅付近で電車を眺めていたこと。

当時の薬院は、大ターミナル西鉄福岡駅の隣、対向ホームの小さな地上駅。西鉄福岡駅が起点・終点なので、特急はもちろん急行などは停車せず、普通列車だけの駅だった。周囲はオフィス街、近くに学校などもあるのだが、そんな駅なので微妙に不便だった。

路面電車が走っていた頃は平面クロスしていたし、その後もバス路線が頻繁にこの駅前を通り、利便性は高いはずなのだが、西鉄電車への乗り換え、または西鉄電車からバスへの乗り換えはあまりなかったように覚えている。

というわけで、都会の真ん中の駅ながらどこかのんびりしていて、駅から少し入ると静かな住宅街だった。母が何かの用事でこの近辺に来る必要があったらしく、私もそれについて行った。

母が仕事の用を足す間に、私は無骨な木製の柵ごしに、行き交う電車を眺めていた。
それこそ、雑多な車両がやってくる。

繰り返しになるけれども列挙する。

黄色+赤帯の特急2000形。6両・転換クロスシートという豪華装備、運転台が通常の鉄道車両は左側なのに対し、これは中央にあるという特異な形式だった。個人的には、そこまで好きとは言えない顔つきだったが、とにかく目立っていた。

アイスグリーン+赤帯の5000形。運転台のある側だけがパノラミックウィンドウになっていて、ちょっと特異な顔つき。これは今も活躍している。

やはり同じ塗装の600形。5000形に比べると普通の顔。ただ、上の写真にもある通り、アイスグリーン+赤帯になった直後だったので、ベージュ+茶色の旧塗装もいくつか出会ったし、腰部のライトカセットではなく、頭に一灯ライトを載せた旧顔のものもいた。
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(上は後年撮影したもの)

1000形もよく来た。2000形の登場で特急から外され、少し残念な顔をしているようにも見えた。
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(上は後年撮影したもの)

珍しいのは1300形。つり目の顔は非常に特殊だった。出身は旧600形というから、当時としても貴重なものだったのだろうと思う。怒ったような表情なので、子供心にもよく覚えている。
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(上は後年撮影したもの)

まだ当時は300形などもいたらしく、かろうじて写真を撮ったのだが、当時カメラの使い方がわからないために裏蓋を開けてしまい、感光させてしまっている。当時の小学生鉄道ファンあるあるな失敗なのだ。
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他にもたくさんの電車を見て、撮影も一部をした記憶があるが、大部分は忘れてしまった。

さて、そのときのもう一つの記憶。

近くの商店、せんべいなどの米菓を売っている店があった。
駄菓子屋、というより、もう少し大人向けの店だったかもしれない。
母はそこで、柿の種を買ってくれた。

現在の、スーパーやコンビニなどで売っているような、個別に包装されているものではなく、量り売りで、紙に包まれたその柿の種のおいしさは、以後ずっと忘れることができず、現在に至るまで柿の種が好きになる要因となった。

私にとって、西鉄電車の最初の記憶=柿の種、なのである。

 

遠い日の西鉄バス(2・早良営業所管内:よろづのかるみ昔話)

小学生男子は、たいてい、何らかの形で鉄道に興味を持つ。

親が買い与えてくれる絵本や雑誌に、特急や新幹線が出てくるものが多いから、それは当たり前の反応とも言える。
私もご多分にもれず、ブルートレインや特急列車が好きだった。
特に、九州では見られない直流電気機関車のEF65や、113系に強く関心があった。これも、恐らく本の影響なのだと思う。

ところが自宅近辺には直流電化路線はおろか、鉄道路線がない。最も近い "最寄り駅" は、国鉄筑肥線西新駅。最寄り、と言っても片道約2.5kmはあるうえに、本数も1時間に数本とのんびりしていて、そしてやって来る車両はキハ35とかキハ20などの気動車ばかりだった。朝夕にDE10が牽引する客車列車もあったが、当時としては客車列車など特に珍しくもないし、子供心をくすぐる存在では決してなかった。
 

そんなわけで、個人的には、博多駅が "自宅最寄り駅" だと考えていた。

当時も今と変わらず、博多駅にはたくさんの列車が集まる。
特急はほぼ485系、急行は475系やキハ58、普通列車は415系(いずれも派生形式を含む)ばかりで、今のように885系とか787系、883系を始めとしたデザイン列車の百花繚乱、という雰囲気ではないが、朝夕にはブルートレインも現れるし、非電化路線に入るキハ82などがひょっこり現れるなどの面白さがあった。1日いても、飽きない駅だ。ホームの上には格安の立ち食いうどんもある。

ただ、個人的に "最寄り駅" とはいっても、片道10km弱はあるので、当然、自宅からバスで行く。


飯倉営業所が絶賛営業中の頃は、現在の国道263号線から中心部へ向かうバスのほとんどが「3」系統で貫線(かんせん)経由と呼ばれていた。貫線とは今では全く呼ばなくなった名前だが、かつて路面電車が走っていた頃の福岡市内線の路線名称で、現在の明治通りである。

「3」系統は国道263号線を西新まで出て、そこから東へ向かい、天神もしくは博多駅を目指す。なお西新まで顔を出すだけで、そこで終点のものもあった。星の原線も、これに含まれる。

「17」という系統、これは上記の明治通りは通らず、荒江四角で東へ向かい、六本松、柳橋を経由して博多駅へ向かうルート。混み合う西新や天神を通らないため、「3」系統よりも到達時間が早く、地下鉄ができるまでは人気のルートだった。地下鉄ができても、乗り換えが不要なので現在に至るまで愛用されている。

このほか、「9」という系統があった。通過するのはほとんど「3」系統と同じなのだが、終点が天神の外れだったように記憶している。運用の都合のような路線だったので、ほどなく消えたと思う。

「14」系統、これは七隈方面、茶山を通って天神へ向かう系統で、飯倉営業所からも少しだけ出ていた。天神へ出るとはいえ、まずは南へ向かうという全く明後日の方向へ走るので、一度も利用したことがない。

「93」系統もあって、これは藤崎へ行く路線。そもそも飯倉から藤崎へ行くのは、せいぜい区役所の用事くらいしかなく、こちらもほぼ乗ったことがない。「ほぼ」というのは、一度だけ区間利用(唐木ー脇山口)をしたことがある、その程度だった。 

飯倉営業所がなくなり、早良営業所がメインになると、系統も増えていったような気がする。

その際たるのは「200」の急行バスや、「3-3N」という都市高速経由バス。前者は、いくつかのバス停を飛ばし、六本松・国体道路経由で博多駅へ向かうのだが、急行専用の車体を用いていて斬新だった。後者は普通の車体だが、都市高速というワープを使えるのが魅力だった。


自宅近辺だけでもこれほど数多くの系統があるのに、それを福岡市内ほぼ全域で維持しているのが西鉄のすごさだと思う。長いこと「バス保有率日本一」という称号を欲しいままにしていたのも理解できる。よく、他地域の人が、天神や博多駅で「バスに囲まれた」「バス渋滞」などと驚くのだが、本来であれば鉄道に置き換わるべき旅客量を、きめ細かい路線網で運んでいることがよく分かるのだ。


それぞれの系統は、いわゆる起点は天神や博多駅という、町の中心部だが、終点は一定しないものが多く、「3」系統でいけば、今はなき飯倉や、星の原団地、早良営業所、さわら台団地、西入部、脇山小学校、早良高校、椎原、曲渕などなど。飯倉営業所時代の「17」とか「93」では重留もあったような記憶があるが、「重留」がなんと呼ぶのか分からず、友達と「 "じゅうりゅう" じゃない?」「いや "おもどめ" だよ」とか言っていた。後年そこに行く機会が増えたが、なぜここが、一時的にでも終点になったのだろう、と思わざるを得ないような、何もないところだった。
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遠い日の西鉄バス(1・飯倉営業所:よろづのかるみ昔話)

西鉄バスに関する私の最も古い記憶は、ベージュと深緑の車体。

どこで見たかは覚えていない。
調べてみると、その塗装が採用されていたのは1975(昭和50)年あたりまでだから、まだ4歳頃の私が、詳細を覚えているはずはない。

とりあえず、その記憶を持ってはいたものの、その後は長いこと標準採用されていた白+ピンク帯の車体と付き合っていたのだから、「あれは記憶違いかな」と思っても仕方ないと思う。
今のように、ネットで瞬時に調べられるわけでもないし、幼児の頃の記憶を確認するため、資料を探したり図書館に行ったり、あるいは西鉄本社に問い合わせするような、そこまで重要な事柄でもない。

2018年に復刻カラーが登場して、記憶とほぼ同じなのを見て、ああ、やはり間違いなかったんだと思う程度だ。それでもいいと思う。


2008年に新たなスマートループという塗装が採用され、強烈な違和感を感じたのは、その間に使われていた、「白+ピンク帯」という期間が非常に長く、そしてその期間は、私の人格を形成し、思春期を過ぎ、大人になるまでという、個人の環境が激変する中で、バスの塗装はほとんど変わらなかったという、個人的な経験が関係していると思う。
ただ、その "時代" は、いわゆる「団塊ジュニア」世代が多いので、やはり同じく違和感を感じる人が多いのではないかと思うのだが。まあ、それはどうでもいい話である。

今回は、そんな西鉄バスの思い出を、自分が知っている限りの内容で書きたい。


自宅最寄りのバス停は「唐木」だった。早良区の飯倉地区にある、主要でもなんでもない小さなバス停だ。
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周辺は住宅街だったため利用客は多いものの、この近辺はどのバス停でも似たようなもので、それぞれ両隣にある、西鉄バス営業所の飯倉(飯倉営業所)、三叉路にあった干隈などと比較しても地味なバス停だった。そのため、後に急行が設定された時には、通過扱いとなった。

隣に飯倉営業所があるのは、いろんな意味で不便だった。
天神や博多駅方面へ、そこ始発の便が多いため、当然のことながら唐木は本数が少ない。少ないといっても田舎のローカル線ではないからかなりの本数はあるのだが、営業所の方はやはり本数がもっと多い上に、始発だから当然空いていて、ほぼ100%座れる。なので時々、飯倉営業所まで歩いて行くこともあったし、また、天神や博多駅から帰る際も、「飯倉営業所」止まりが多かったので、そこから唐木まで歩くことが多かった。

唐木から飯倉営業所までの距離は全然大したものではなく、せいぜい300mくらいではあるが、不思議とこの距離でも不満ではあった。とは言っても、何ができるわけでもない。歩くか、待つか、である。


営業所はそこそこ広く、いつも十数台のバスが休んでいた。

小学校のときに、見学ということでここに訪れてバスを見せてもらったこともある。営業所建物内は黒い大理石のような頑丈なカウンターがあって、暗くて閑散としていた。検修庫やバス車体も見たはずだが、全く記憶が残っていないのは不思議である。当時、鉄道少年だった私は、あまりバスに興味を示さなかったのかもしれない。そして簡単なパンフレットをもらって帰ってきた。

後日、友人が「もう一度行きたい」と言ったので、再度営業所に訪れたのだが、応対した職員の方はやはり同じパンフレットだけ渡して、内部には入れなかった。当然だと思う。


そんな営業所の一番手前に、通常より小さなバスがちょこんと座っていることがあった。
当時としては新設路線にあたる、星の原団地行きのバスだった。

飯倉営業所を始発に、唐木が一応、分岐点となり、干隈バス停の直前で右折、そして大坪というバス停のみを経由して、終点・星の原団地へ至るミニ路線だった。当時は他の路線と同じ「3」という系統のみ割り当てられていた。
この間の道路がやたらと狭いゆえ、他の路線で標準の大型車体では運行できず、それよりもちょっと小柄な中型バスを用意していた。車体デザインはほぼ同一、面構えや方向幕などは全く同じものの、それでいてちょっと小柄という愛らしいバスである。

この時期のバスの特徴として、車体正面のウインカーが今のような黄色でかつ側面まで回り込んだものではなく、前面ライトの上に設置する白熱灯タイプを採用していて、それもそろそろ末期でなくなりそうな頃合いだった。この小さいバスは、片側1灯ライト+白熱灯ウインカーで、それでいてその他の顔つきは他の大型バスと同じという特異な存在だった。個人的には好きな一台だった。

飯倉営業所と星の原団地の間を行ったり来たりするのみで、本数もごく少なかった。だからこの愛らしいバスに乗ったことは残念ながらなかった。いつの間にか、新型に置き換えられていて、運転区間も西新まで伸びた。そして飯倉営業所も廃止されて、しばらくの間は空き地の状態となっていた。 星の原団地行きバスは、しばらく今川橋を寝ぐらにしていたように記憶している。 
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